キリストの根源的ご性質 ・・・・ 特に、数学定数 e に関連して
2014 3 1
1. ヨハネの福音書1:1−5:
2. 不変なもの、永遠に続くもの:
3. 思索と 自然を 貫くもの(1):
4. 思索と 自然を 貫くもの(2):
5. 十字架の力:
特別啓示(聖書)から、
「1 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2 この言(=同じもの)は初めに神と共にあった。
3 すべてのものは、これ(=彼)によってできた。できたもののうち、一つとしてこれ(=彼)によらないものはなかった。
4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」 (ヨハネの福音書1:1−5、口語訳、( )はKJV)
「15 御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。
16 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。
17 彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。」 (コロサイ人への手紙1:15−17)
「1 神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、
2 この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。
3 御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。」 (ヘブル人への手紙1:1−3)
また、一般啓示(自然啓示)から、
・ 3つの数学定数のうちの一つ: 自然対数の底(=いわゆるネイピア数) e の定義:
(一般的な定義)
・ 数学の3大分野の根本的な定数(幾何学の π、 代数学の i 、 解析学の
e )同士をつなげる数式
e i π = −1 (オイラーの恒等式)
1. ヨハネの福音書1:1−5:
* このページの みことばの解釈部分の多くは、フルクテンバウム師(ユダヤ人クリスチャンの聖書学者、メシヤニックの立場から)の解釈によりました。
→ http://www.harvesttime.tv/message-station/audio/messiah/episode/377
(1) 「ことば」 の根源性:
使徒ヨハネだけが キリスト(=メシア)に対して、「ロゴス(=ことば)」という表現を用い、しかもこの序言にしか出てきません。
階段を一つずつ上がるように、イエス様の「受肉」というゴール(1:14)に至る、という文書の構造です。
「初めにことばがあった。 ことばは神とともにあった。 ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。」(ヨハネの福音書1:1)
「初めに」は、『アルケー(ギ) = 永遠の初め』 の意。 これは創世記1:1の「初め = ベレーシス(ヘ) = 天地創造の初め」よりも”以前”のことであり、単に 『時間的に先』であること のみならず、あらゆる摂理的順序において『最も根源的である』ことを表しています。
このように、ヨハネの福音書は、「神」しか存在していなかった時に戻って書き始められています。
・・・・ 創世記の「初め」の時は、すでに 「御使い(天使)」が存在し、その3分の1が堕落天使になっていた状態 = 混沌とした状態、 とする解釈が普通
そして、最も驚くべきことは、「初めに」存在しておられた方が、「神」と表記されず、「ことば(=ロゴス(ギ): ことば、理性、理論の意)」と表記されて紹介されている点です。
万物の存在の前提として、「イエス様 = 神の ことば」が 根源的に存在していなければならないのです。
(2) 自然啓示における「ことば」の位置付け:
自然対数の底 e とは、その”名”のとおり、「自然(=物理)」を厳密に表現するのに無くてはならない 基本的な数学定数です。 自然の振る舞いは、(ニュートンやクーロンの法則などの ごく基本的な原理・法則を除いて、それ以上のものについては、)すべて e を用いて表現されます。
そして、その形態は、大きく分けて2種類、・・・ 「死」 または 「生」 に分類されます。
1) e−x 型(死のパターン): 熱力学、統計力学、梁のたわみ、砂利の山の形、コンデンサーの充・放電、放射性核の崩壊、・・・
2) e iθ 型(いのちのパターン): 周期現象、振動・波動、光学、発振、電磁波、量子力学的振動、・・・
このどちらにも e が、基本的なもの、絶対的なもの、不変なもの、として自然のあらゆる部分に普遍的に関わっています。
この e こそが、御子イエス様を表わす「自然啓示」でなくて、何でしょう? イエス様は、 「生ける者」 と
「死にたる者」 とを さばくお方です。
(3) ことばの神:
「神」は「ことばの神」であり、キリスト・イエス様が 「神のことば」です。
使徒ヨハネだけが キリストに対して、「ロゴス(=ことば)」という表現をこの序言で用いました。
ロゴスは、ヘブライ語で”ダバール”と言い、旧約聖書では各書で 擬人的に用いられています。
・・・ 創世記15:1、 詩篇33:4−6、 147;15、 イザヤ9:8、 55:11、 エゼキエル1:3
・・・ 当時のユダヤ教のラビたちが作り出した概念の”メムラ(アラム語)”という言葉を、ヨハネはロゴスと訳して流用した。それゆえこの書は 彼らラビたちへのメッセージにもなっています。
「10 天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。
11 このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。」 (イザヤ55:10、11)
・・・ 神は、語られた言葉を必ず成し遂げる 「聖」なる方です。(「聖なる」の第2の意味) そして、ご自身を「真理」(ヨハネ14:6)と宣言された方、御子イエス様が、その語られる一つ一つの言葉によって、神様のわざ(創造・再創造、救い、あるいは、さばき)をことごとく成就させていきます。
主からの言葉をいただければ、それで十分です。(ルカ7:7) 「神のことば」は「種」となって、成長し、時が来れば「実」が成って成就します。
終末の時の世へのさばきの時も、再臨のイエス様が、言葉の剣でさばきをされます。(黙示録19:15)
しかし、イエス様が イザヤ書61章1、2節を引用して朗読された時、「主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を、主の恵みの年とを告げ」(ルカ4:18、19)
で止められました。なぜなら、この時「復讐」という言葉をイエス様が語ったならば、恵みの時代に、全世界に神の裁きが行われて、全人類は滅亡してしまうからです。
イエス様が語られる 神のことばには、絶対的な力があります。
(4) 「ことば」には3つの特徴があります:
1. 天地創造の前から「ことば」は存在していた。 ・・・ 「神」 と 「ことば」 とは 別の存在として。この場合の神 = 父なる神。
2. 「ことば」は 「神」と、親密な交流関係にあった。 ・・・ 「with: 共に」= 「pros: プロス(ギ)」は 親密な関係を表わす前置詞。
3. 「ことば」は、「神」と一体。 ・・・・ 「In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God. 」 ・・・ 「神」を形容詞として訳す。((冠詞無しの)God、 by.KJV(欽定訳)) (cf.エホバの証人のように
a God と訳すと、イエス様の神性の否定か、多神教に行き着くことになる。)
1節の 「この方は、初めに神と共におられた」ことは、イエス様の神性について語られたものであり、ユダヤ人との論争で焦点とされたところでした。( → ヨハネ5:18、19:7)
(5) イエス様が創造主でおられること:
3節: 「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」より、
・・・ 「すべてのもの」とは、「神」以外のすべてのもので、御使いも含む。
「この方によって」 は、 dia(ギ) → by Him、または、through Him
そして、「ことば」が 「神」に 劣るということはありません。「神」と同時に、創造のわざに参加したことを意味しています。
(参考 → ) 「神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれた(π: 電子軌道、回転の法則・スピン、天体の軌道運動)とき、わたしはそこにいた。 ・・・・ わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者( e: 波動、量子力学、あるいは、統計力学的組立て)であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。」(箴言8:27−31)
(KJV) 「30 Then I was by him, as one brought up with him: and I was daily his delight, rejoicing always before him; 」
(6) 光と やみ との戦い:
4節: 「この方に いのちがあった。 このいのちは 人の光であった。」
5節: 「光は やみの中に輝いている。 やみは これに 打ち勝たなかった。」
・・・ いのち(= zoe(ギ)、ヨハネの福音書で36回出てくる) イエス様は、いのちの源であり、 1.創造主として、肉体のいのち、 2.救い主として、霊的いのち(永遠のいのち) を与えてくださいました。
”光と やみとの戦い”が、ヨハネの福音書のテーマの一つです。ただし単純な”二元論”ではありません。だから、「打ち勝たなかった(= カタランバノウ(ギ))」は、 「到底 悟ることも 理解することもできず、そして (当然のことながら)勝たなかった」、という意味。 聖書は、やみに それほどの力を認めていません。サタンでさえも 主に伺いを立てています。 (→ ヨブ1:6−、 だから、「試みにあわせず、悪(=悪しき者)から救い出してください」と 主に祈ります。)
* 「5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」(口語訳) の原文、
「5 And the light shineth in darkness; and the darkness comprehended it not. 」(KJV) も、かなり強めに否定しています
・・・・・ (KJVの欄外注: or, apprehended ;lit. laid
not hold of it. 、 意訳すると、「闇は、光を把握する事が不可能だった。」
すなわち、天地の創られる”以前”から(天地創造以前には堕落天使らもいた)、主イエスキリストは、圧倒的な勝利者である、ということ。)
(7) 三位一体との関係:
「ことば(= ロゴス(ギ)、メムラ(アラム語))」は、”「神」と別の存在で、なおかつ、「神」と同じ方である”、というパラドックスは、当時のラビたちは説明することを意識的に避けていました。 そしてこれは、神の『三位一体』によって、唯一 説明可能です。
(参考 : 神の三位一体のみことば)
(1)父=神:
「私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、・・・また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、・・・」(Tコリ8:6)
(2)父=子:
「わたしと父とは一つ(同一の本質)です。」(ヨハ10:30)
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。・・・その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」(イザ9:6)
(3)子=神:
「このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。」(ロマ9:5)
「御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、・・・」」(ヘブ1:8)
(4)子=聖霊:
「その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」(マタ1:20)
(5)聖霊=神:
「主の霊は、私を通して語り、そのことばは、私の舌の上にある。イスラエルの神は仰せられた。・・・」(Uサム23:2−3)
「さて、御霊(聖霊)の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主
です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。」(Tコリ12:4−6)
(6)イエス・キリスト=旧約聖書の主:
「もしあなたがたが、わたしのことを((直訳)わたしは”在る”という者である(I
am that "I am")ということを)信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」(ヨハ8:24)
+ 「神はモ−セに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」」(出エジ3:14)
(7)初めから三位一体を暗示する所:
「さあ、降りて(単数)行って(複数)、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」(創11:7)
「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」(創3:22)
・・・・・三位一体という言葉は直接聖書には書かれていないが、聖書には一貫して、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神(神の霊。
信じるすべての者に与えられる。)という三つの位格があって同時にそれが一つの神である事が書かれてある。三位一体は知性では決して理解されない”神学的
深遠の問題”と呼ばれるものである。
どれか一つを強調しそれに言及することは問題ないが、三つの位格のうちのあるものが他より低い位置に置かれる教理をもっているならば、それは霊の異なる”異端”である。 たとえば、”エホバの証人(ものみの塔)”では父なる神よりもイエス・キリストが低い位置に置かれているので、キリスト教界では明確に異端とされている。 (また、ユニテリアン(「父なる神」のみ)、三神論も、三位一体でないから異端である。)